トップページ > 泡盛の歴史 > 焼け跡から集めた黒麹菌

泡盛の戦後史

焼け跡から集めた黒麹菌

昭和初頭は県外向けにポスターやレコードが作られ、県外移出が急速な伸びを見せた泡盛。その後、日中戦争をきっかけに戦時体制の厳しい時代、そして第二次世界大戦に突入する。写真は比嘉華山の描いた戦前の沖縄県酒造組合のポスター。

第2次世界大戦で地上戦に巻き込まれた沖縄は、ご存知のとおり凄まじい攻撃を受け、地域によっては「地形が変わってどこが自分の土地かも分からない」ほど壊滅的な状況に追い込まれました。
泡盛酒造所もその難を逃れることはできず、多くの工場は粉砕され、戦後の沖縄での酒造りは、まさしく0からのスタートを余儀なくされたのです。
当初、米軍政府の管轄下で酒造りは禁止されていましたが、人の営みに酒はやはり欠かせないもの。食べるものの確保にも困窮した時代で、米を原料にすることは難しく、人々は芋や糖蜜、ソテツ、配給される小麦粉、トウモロコシ、チョコレートなど、酒の原料になるようなものを手当たり次第使って密造酒を造り始めました。ときには、安易に燃料アルコールを水で薄めて飲むこともあり、メチルアルコールで失明したり命を失ったりするという悲劇も起こりました。

禁止されていても密造酒が横行するなか、軍政府も正規の酒造所の必要性を認めざるを得ず、1946年には県内に5つの酒造廠を造りました。官営の工場ですので、すべての工場には「廠」の字が用いられているのが特徴です。ここからが本格的な泡盛の復興となりますが、まだまだ問題は山積みでした。そのひとつが、黒麹菌です。
穀物を原料とする酒造りでは、まず原料のデンプン質を糖化させる必要があります。泡盛では黒麹菌を使いますが、戦前の泡盛工場の多くが地上戦での攻撃で壊され、土に埋もれたため、戦後は黒麹菌が欠乏していたのです。人々はしかたなく、イースト菌などを使って酒造りを行っていました。

そんな時代に、土に埋まっていた黒麹菌を探し出し、泡盛復興への道を拓いたある一人の人物のエピソードが、『現代焼酎考』(稲垣真美著)という本に記されています。要約すると次のようなものです。
官営の酒造所のひとつである首里酒造廠を任されていた佐久本政良氏が、米軍の攻撃で木っ端みじんにされた戦前の泡盛工場跡で、土に埋もれていたニクブクを発見しました。ニクブクとは稲藁のむしろで、戦前の泡盛造りでは、このニクブクの上に蒸した米を敷き、そこに黒麹菌を撒いて米麹を造りました。
佐久本さんは、そのニクブクに黒麹菌が生き残っていたら…と思い、蒸した米の上に、ニクブクの繊維をもみほぐすように落としていきました。その米を米袋でくるんで24時間後……。
「(蒸した米は)表面が緑がかった黒色に一変していたではないか!『生きていた、生きていたぞ黒麹菌が!』」
佐久本さんは、「これで泡盛ができる」と涙を流して喜んだそうです。

戦後の灰燼の中から採集した黒麹菌。戦後の泡盛復興がいかに苦難の道だったかを示すひとつのエピソードとして語り継がれています。

ウイスキーから泡盛への転換 »

よくある質問

オンラインショッピング

泡盛百科 携帯サイト