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泡盛の戦後史

ウイスキーから泡盛への転換

沖縄国税事務所で定期的に行われる泡盛の酒質鑑評会風景

1972年に本土復帰するまでの沖縄はアメリカの統治下にありました。通貨もドルを使い、戦後27年間は食文化もアメリカの影響を色濃く受けました。もちろん、酒も戦前とはがらりと変わり、戦後の沖縄はウイスキーなどの洋酒が圧倒的な人気を博しました。
なにせ、伝統的な泡盛の製造は、1950年代半ばまでは原料に米を使うこともままならず、芋や糖蜜、トウモロコシ、小麦粉、果ては砂糖やチョコレートまでを原料にするほどの状況。戦争で灰燼に帰した沖縄では、蒸留機などの製造設備もドラム缶などを加工して使う密造酒造りから始まったのです。
このような時代に、いわゆる完成品の状態で、それもアメリカ統治下なので安く輸入することができるウイスキーなどの洋酒に、0からの再興を余儀なくされた泡盛が風味で対抗するのはとても難しかったことでしょう。
人々は洋酒になじみ、復興とともに増えていくスナックなど飲食店などでも、取り扱う酒はすべて洋酒という時代が長く続きました。しかし、泡盛業界もずっと手をこまねいていたのではありません。よりおいしい、一般の人たちに親しんでもらえる飲みやすい泡盛造りに日夜努力を重ねていたのです。
特に復帰後は国税事務所に鑑定官が配置されるなど、泡盛の品質を高めるための措置がいろいろととられました。品質をチェックする鑑評会を開き、さらには焼酎などの酒造業界の進んだ技術、設備を積極的に導入していったのです。例えば、冷却ろ過、減圧蒸留などなど。1970年代は、県内の愛飲家はまだまだ洋酒一辺倒でしたが、泡盛も静かに改革に取り組んでいたのでした。

また、復帰後は県外の大手居酒屋チェーン店も沖縄に進出してきました。それとほぼ時を同時に出たのが、いわゆるグリーンボトル入りの泡盛でした。これは那覇の久米仙酒造が1979年に出したものです。それまでの泡盛は、一升瓶や三合瓶など、無色透明のビンに入ったものが一般的だったので、スナックなどの飲食店でウイスキーの棚に並べても遜色のない、おしゃれなデザインのボトルを用いて泡盛のイメージをアップさせようというのが狙いだったそうです。
このグリーンボトルを、大手の居酒屋がどんどん採用していったのが、1980年代でした。ラベルにお店の名前を入れ、オリジナルボトルとしてお客さんにキープしてもらったのです。
居酒屋でどんどん泡盛グリーンボトルが置かれるようになると、ほかの酒造所もこのグリーンボトル入りの泡盛を次々と生産するようになりました。
こうなると、これまで洋酒全盛だった沖縄県民の嗜好にも大きな変化が訪れます。これまで安酒=まずい酒のイメージをもたれていた泡盛ですが、飲んでもらう機会が増えるにつれ、一般の人たちの目に見えなかった努力に裏打ちされた品質向上が認められ、県民の間で急速に需要が伸びていったのです。
一方のウイスキーを中心とした洋酒は、本土復帰とともに価格も値上がりしていたため、徐々に人気は下降線をたどります。
このように、さまざまな要因が結びつき合って、1980年代に泡盛は本当の復興の時期を迎えたのです。

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